【系譜】
頼信の四男は、父祖以来の河内国を動かずに、河内冠者と称して、宮廷武家で生涯を送った。
この系統も、そのまま河内国に住み続けて河内姓を称し、宮廷武家であり続けた。
しかし、身分は低く、嫡系でも従五位下の左衛門尉どまりであった。つまりは皇居の門の護衛兵である。
頼任から八代目の行正の弟行継の代に、わずかに昇進した。左衛門尉から滝口の侍に取り立てられたのである。
滝口というのは清涼殿の本庭北方の御清水の落ち口のことで、転じて、このあたりに詰めて禁裏の警護にあたる武士のことをも指すようになった。
行継が就いたのが、これである。以降、行継の系統が嫡系よりもやや盛え、その末裔から豊後守・筑後守などの国司に登用されるものも現れた。
けだし、滝口に勤務すると、単なる門衛である左衛門尉であるよりは、上つかたの目に留まる機会も多くなったのである。
この系統が名乗ったのが滝口姓である。その他の系統は、その後の史上に現れることもなく、やがて歴史の背後に消え去っていく。
ところが、この系統を称するものが、織豊時代の末に、ひょっこり現れたのである。
名は河合市三郎良悟。慶長二年(1597年)突然、徳川家康の御鷹同心として召し抱えられたことが、『寛政重修諸家譜』に見えている。
鎌倉・南北朝・室町・戦国と討ち続く戦乱の間を、この系統がどのようにして生きていたか、それはわからない。
家康とどのようにして結びついたかも、判然としないが、家康の鷹狩り好きは有名である。
以降、この系統は江戸幕臣、旗本家として終始し、御鷹同心から吹上の添奉行へと栄転していった。
廩米百俵、月棒三口が知行高だったから、決して上位の存在ではない。
しかし、代々、お目見えは受けており、千駄木の専念寺を菩提寺にしている。
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