出 自 | 足利氏族 | |||
始 祖 | 仁木実国 | |||
派生姓氏 | 向井・榊原・大野・杉原・水田 |
足利義兼の弟義清の孫実国を祖とし、本家足利氏の三河守護在任に伴って下野から三河額田郡 仁木(現岡崎市北部)に本拠を移し、仁木氏を称した。実国五代の孫にあたる仁木頼章・義長兄弟 の活躍によって、足利一門の末流から一躍幕府の中枢に登用されることになった。 まず、頼章は、建武三年(1336)、山陰道方面の軍事を任され、丹波守護に補任され、義長は 九州・機内で活動の後遠江・伊勢・志摩・伊賀等の守護を歴任した。一時は直義方のために分国 全てを奪われたが、観応の擾乱に際し尊氏方として戦功を挙げ、頼章は丹波・丹後・武蔵・ 下野・の守護に加えて幕府の執事に抜擢され、義長も伊賀・伊勢・志摩・遠江・各守護を回復 したうえ三河守護を加え、擾乱後は一族で九ヶ国を支配するという全盛期を迎えた。 しかし、尊氏の死とともに衰運に傾き、頼章が没すると丹波以外の分国を失い、延文五年(1360) 政敵細川清氏のために義長は幕府の追討を受ける身となり、南朝に帰順する始末で、結局、 仁木氏は全ての分国を失った。清氏失脚後は丹波・但馬を回復、のち伊勢守護に還り、頼章の 猶子頼夏は侍所頭人に就任するが、応安五年(1372)には再び全分国を喪失する。美濃の乱で 土岐氏没落のあと、明徳元年(1390)に義長の嫡子満長のとき伊勢を回復、応永の乱後は、 大内義弘の後を襲って和泉守護に任ぜられたが、それもつかの間、応永十四年には罷免される など世襲分国の形に至らず、応仁の乱中にようやく伊賀一国を回復したが、戦国期の動静は不明。 |
仁木氏略系図 |
足利 | 仁木 | ||||||||||||||||||||||||||
義家 | -- | 義国 | -- | 義康 | -- | 義清 | -- | 義実 | -- | 実国 | |||||||||||||||||
実国 | -- | 義実 | -- | 義俊 | -- | 義継 | -- | 義秀 | |||||||||||||||||||
L | 師義 | -- | 義勝 | -- | 頼章 | -- | 義尹 | -- | 満尹 | -- | 持尹 | -- | 持長 | -- | 成長 | ||||||||||||
| | L | 頼夏 | |||||||||||||||||||||||||
| | 上地 | ||||||||||||||||||||||||||
|- | 義連 | ||||||||||||||||||||||||||
| | 向井 | 榊原 | |||||||||||||||||||||||||
L | 義長 | -- | 満長 | -- | 満将 | -- | 成将 | -- | 貞長 | -- | 利長 | ||||||||||||||||
L | 義員 |
源義家後裔諸氏族 | 足利氏族 |