(清和源氏)源義国流系図

 

出   自       清和源氏源義家
氏   祖       源義国
派生氏族       新田氏族足利氏族
派生姓氏       新田・山名・里見・高林・竹林・田中・牛沢・大井田・大島・烏山・豊岡・太田
今井・今居・大館・堀口・一井・荒井・寺井・村田・金井・金谷・由良・横瀬
細谷・綿打・田部井・藪塚・田島・谷島・西谷・得川・徳川・世良田・江田
額戸・合土・長岡・鶴生田・鶴田・岩松・広沢・渋川・桃井(以上上野国)
足利・板倉・小俣・加子(以上下野国)
一色・上野・上地・吉良・今川・関口・松平・仁木・細川・矢田
戸賀崎・戸崎・荒川(以上三河国)
斯波(陸奥国)
畠山(武蔵国)
大野(越前国)

 

 
【系譜】
南北朝内乱は、ある意味では、新田・足利両家の源家の嫡流の座の争奪戦であったという一面を持っている。 そして、南北朝内乱を熾烈なまでに戦った新田・足利両家の共通の祖先が、八幡太郎義家の三男義国である。 言い方を変えれば、義国の子孫が二派に分かれて、南北朝内乱を戦ったということにもなる。
義国は、平安末期に生きた。式部丞・帯刀長を経て、加賀介に任官。位階は従五位下どまりであった。 生来の荒武者で、仁平四年(1154年)三月、加賀介を極官として出家した後も、荒加賀入道と呼ばれたという。 勇将の下に、弱卒なしという。義国の郎等も、主に劣らぬ荒武者ぞろいだった。主あるは知っていたが、主に主あるは知らない者達ばかりであった。 彼が出家しなければならなくなったのも、義国主従の荒っぽさに原因があった。 事件は、久安六年(1150年)に起こった。このとき、義国は京都にあった。 参陣の途中のことである。義国の行列が、右近衛大将藤原実能の行列にどし上げてしまったのである。相手は数等も上位の公卿であった。 主人の身分をかさにきた実能の随身たちは、義国の弁解も聞かばこそ、喚き散らしながら走り寄ると、たちまちに義国を馬上から曳ずり下したのである。 さすがの義国も、このときばかりは、相手の身分を考慮して、この場は我慢していたらしい。 しかし、これを後で知った義国の郎等たちには、我慢はなかった。怒り心頭に達して、大炊御門の実能邸に馳せていくや、 瞬時にして実能邸を焼き払ってしまったのである。いやはや、乱暴とも無法ともいいようのない所業であった。 義国の郎等にはほぼ似たような振る舞いが以前にもあったからたまらない。 たちまち勅勘を蒙って、下野国に下って篭居、謹慎して出家したということになったのである。 義国が身を寄せたところは下野国の足利荘。藤姓足利氏の所領だった。母の実家だったともいい、妻の里だったともいう。 いずれにしても、荒加賀入道である。じっと謹慎などしているわけがない。 身柄を預かってくれている藤姓足利氏に対しても、遠慮をするどころか、却ってわがままいっぱいに、ついに、藤姓足利氏に対して源姓足利氏を呼称して、 自ら足利式部太夫と名乗り、藤姓足利氏の所領の中に”足利別業”と称して、自分の所領を構えてしまったのである。 平たく言えば、藤姓足利荘から一部分を押領したということである。 当然、藤姓・源姓の両足利氏の間で、合戦が生じても不思議ではない。一所懸命の地である。 しかし、少なくとも、この時には合戦は生じなかった。「源家の御曹司のヤンチャなことよ」とでもいうようなことだったらしい。

その代わりというわけではなかっただろうが、義国の長男義重が家出した。 おおらかな藤姓足利氏にひき比べて、自分の父の不遜傲岸に恥ずかしさを感じて、というのであればかわいいが、事実は反対である。 父がうまくやったのだから自分も、ということだったらしい。 義重が家出していった所は、渡良瀬川の川岸、上野国新田郡である。 若干の無主の地を点定したり、周辺の小領地を買得したりということで、新田郡全域を自領にしようとしたのである。 やがて、ある程度までの開発が済むと、義重はこれを立荘して新田荘とし、自分は新田荘司となった。 立荘のために寄進した相手は、当時、日の出の勢いの平清盛の娘婿、藤原忠雅であった。時に保元二年(1157年)三月である。 この前後の数年間は、義重は物凄いばかりに多忙だったに違いない。開墾、開発、寄進、立荘などの仕事が続いたのである。 だから、保元・平治の乱(1156年・1159年)が京都で戦われて、源家全体の勢威が急速に凋落しつつあったことなど、 彼にとっては、全く知ったことではなかったらしい。とにかく、彼は両乱にまったく関与していない。 それにしても、義重が切り取って立荘した上野国新田郡は、下野国足利荘に本拠を置く藤原姓足利氏の勢力範囲であった。 藤姓足利氏は、義国・義重の二代にわたって自領を押領されたのである。もう黙ってはいられない。 こうして、ついに両足利氏の戦いが始まったのである。 籐姓足利氏に対する源姓新田氏の戦いではあったが、下野国足利別業を伝領した足利義康が兄義重を援けて戦ったので、この名がある。 藤姓足利氏が武蔵国秩父郡の畠山党を与党に引き入れたため、合戦は上野・下野領国間の渡良瀬川のみならず、 上野・武蔵両国の間を流れる利根川の辺りでも戦われた。夜討ち・朝駆け・焼き討ち・渡河戦・挟撃と、あらゆる方法の合戦が演じられたが、所詮は地方の勢力争いである。 一進一退で、容易には決着がつかなかった。 やがて、頼朝の挙兵による源平合戦が始まると藤姓足利氏は平家に殉じて滅亡。 結果的に新田荘は安堵され、足利荘は義国の死後に足利別業を伝領していた次男義康の所領となっている。 義国、義重、義康父子三人による押領は、見事に完成したのである。

ここまでは、新田義重・足利義康兄弟の間は、まだよかった。しかし、源平合戦への対応の在り方が、新田・足利両家の関係をがらりと変えることになる。 新田義重は頼朝の石橋山敗戦を京都の平清盛に報告するなど、最初のうちは平家方に属し、富士川合戦(1180年)を経て、 東国全域が頼朝の版図に帰したのち、ようやく頼朝の麾下に参戦した。遅参も遅参、大遅参である。 他の事情もさまざまに絡まってはいるが、いずれにしても新田家は、鎌倉時代を通じて低調で、末期には本領の新田荘の大部分が北条氏の所領になっている。 零落したのである。反対に、足利氏は栄えた。義康の子足利義兼が逸早く頼朝の麾下に参戦したこともあり、その母が頼朝の母の妹だったということもあり、 義兼が北条時政の娘と結婚して頼朝の義弟になったということもあり、あれやこれやの事情が重なって繁栄し、 承久の乱(1221年)の功によって三河方面にも所領を拡大するまでに至っている。
【新田・足利両家の争い】
こうして、新田・足利両家のうち、どちらが正統かという問題になる。 新田家の初代義重は、長男である。しかし、足利義国の跡を継がずに、家出して新田家を興している。 これに対して、足利義康は新田義重の弟ではあるが、父足利義国の所領と足利姓とを伝領している。 つまりは、両家ともに一長一短があるということになる。 しかし、鎌倉時代には、新田・足利両家のどちらが正統かということは、問題にはならなった。 鎌倉北条氏の外戚で、下野・上総・下総・三河・丹波などに所領を有する大豪族の足利氏に対して、上野国新田荘の本領すら持ち切れずにいる 零落した小土豪新田氏では、考えることすら不要である。北畠親房などは”足利の一族である新田”というような表現をしている。 零落した新田氏から出て、一時は天下に覇を唱えようとしたのが、新田義貞である。けなげとも哀れともいいようがないが、所詮は螳螂の斧である。 南北朝内乱において、圧倒的に優勢な足利氏に対して悲壮な戦いを挑み、結局は跳ね返されて散っていったのである。 足利尊氏が室町幕府を草創した延元三年・暦応元年(1338年)八月十一日は、新田義貞が戦死した同年閏七月二日から数えて、わずか三十八日でしかなかったのである。 足利氏が連綿として将軍の位を嗣いでいた室町時代には、新田氏の生き残りは、多く天下のお尋ね者であった。 山名・大舘・里見などの新田氏庶流は、早くから足利党に鞍替えしていたが、新田本宗を称するものは、天下にいる場所はなかったのである。 ところが、足利氏の室町幕府が衰微すると、新田氏の子孫と称するものが現れる。徳川家康が、それである。 徳川氏の江戸幕府は、新田氏残党がついに天下を取ったということかもしれない。
 
源義国後裔諸氏族略系図
義国 -- 義重 -- 義範
| |- 義俊
| |- 義兼
| |- 義秀
| L 経義
L 義康 -- 義兼 -- 義氏
| |- 義純
| L 義胤
L 義清

 

経基王後裔諸氏族     源満仲後裔諸氏族