清和源氏武田氏族庶流逸見義重の後裔と伝える。逸見氏は甲斐逸見郷より起こり、義重は
承久の変の美濃大井戸渡合戦の功で同国大桑郷を拝領したという。この義重の子孫が尾張
溝口に移って溝口氏を称したというが、「溝口家譜」は逸見義政が常陸溝口村を賜り、
戦国末期の勝政の時、近江・美濃に移ったとするなど混乱が見られる。
史料的には尾張溝口氏は応永元年(1394)からみえ、溝口富之助が常安寺(愛知県西春日井郡
豊山町豊場)を再建したと伝える。同氏の根拠は豊場にあり、子孫は織田信長に仕えている。
しかし、苗字の地とされる溝口と豊場では十数キロも離れており、溝口氏の出自は不明と
いえる。一つの可能性として、遅くとも南北朝期から豊場に移っていた溝口氏が織田氏に
臣従した後、その一族が、信長の重臣となった丹羽長秀の麾下に入ったとも考え得る。
溝口氏が飛躍的に発展するのは秀勝の代である。秀勝は幼児から丹羽長秀に仕え、
天正九年(1581)には若狭高浜城主逸見昌経の遺領八千石のうち五千石を信長から与えられた。
天正十一年、豊臣秀吉が越前北庄の柴田勝家を滅ぼした後、丹羽長秀は秀吉から越前一国と
加賀の江沼・能美二郡を拝領し、このうち加賀江沼郡を戦功のあった秀勝に分与した。
その結果、秀勝は、大聖寺城に拠る四万四千石の大名となった。天正十三年、長秀が没し
堀秀政がその遺跡を次ぐと、秀勝は秀政の与力とされた。慶長三年(1598)越後柴田に移封され、
禄高は六万石に加増された。関が原合戦では徳川方に属してその地位を確実なものとした。
|