蠣崎氏の出自は、若狭武田氏の一族である武田信広とされている。武田信広は粗暴の振舞いも多く、
父に嫌われついには排除されようとしたので若狭国を出奔したという。時に宝暦三年(1451)、
21歳のときであったという。信広は、まず関東におもむき、さらに下北の田名部に移って蠣崎氏の
館に寓し、のち安東政季の蝦夷島渡りに従って海を渡り、花沢館の蠣崎季繁の客となったのだ
という。長禄元年(1457)五月、アイヌの酋長であるコシャマインが、和人の横暴に対してアイヌ
を糾合して、和人豪族の館を攻め、和人方は茂別・花沢の二館だけが残るだけとなった。その時、
花沢館主の蠣崎修理大夫季繁の客となっていた武田信広がコシャマイン父子を射殺したことで、
乱は和人方の勝利に終わった。乱後、信広は茂別館主下国安東八郎式部大輔家政の娘、
或いは蠣崎季繁の娘を娶り、蠣崎姓を名乗るようになったという。がしかし、若狭武田氏側の
記録には、まったくこうした事実は見当たらず、武田信広の出自についてははっきりしない。
一方、花沢館主蠣崎季繁は、南部氏などの記録によると南部氏の庶流で蠣崎村を領し「蠣崎蔵人」
と名乗った人物と思われる。蠣崎蔵人は南部本家との争いに敗れ、八戸政経に追われて蝦夷島に
渡ったといわれる。蠣崎季繁が「蠣崎」姓であること、蠣崎蔵人であるとする説があること、
武田信広が蠣崎氏の養子と成り、「蠣崎に改姓」していること等を考えると、蠣崎季繁を
蝦夷蠣崎氏の祖とすべきであり、蠣崎氏の出自は武田氏族南部氏とするのが妥当と思われる。
『祐清私記』では、蠣崎蔵人こそ松前氏の祖先だといっている。
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