源義時後裔諸氏族系図

 

出   自       清和源氏源義家
派生支流       石川氏族
派生姓氏       石川・板金・万力・古橋・木曽・紺戸・平賀・万力・陸奥・古橋
(桜井・大学・右馬)

 

 
【系譜】
八幡太郎義家の六男義時の生涯は、華々しかった父の声名の陰に隠れて、哀れなまでのものであった。 ひとたび任官した佐兵衛尉の官職が、死ぬまでの最高のものとなったのである。 源氏に替えて平氏を起用し、摂関政治の力を削ごうと図った白川院政の黒い手が、そうさせたと思われる。 父義家の陸奥守にちなんで陸奥六郎と称していた。 嫡男義盛の系統は、わずか二代で断絶した。 保元元年(1156年)の乱に際して、義時の嫡孫義久・義遠・義明の三兄弟は、いずれも九条院に仕えていたこともあって源家の惣領源為義の麾下にあり、 白川殿に参侯して御門の守護に当たっていた。その明け方、平清盛の夜討ちがあり、三兄弟が守っていた御門に対する襲撃が、もっとも激烈であった。 三人はここで戦死した。いずれにも、子はなかった。 次男有義は、信濃国佐久郡平賀郷に下っていたので、この難を逃れた。 以降、その子孫はその地にあって繁延し、平賀姓を称し続けた。 三男義基は、河内国石川荘を領して、同石川郡一帯に子孫を多く繁栄させた。 郡司や在庁官人になるものが多く、石川権守を名乗るものが多かった。 しかし、義基の三男義宗は、かなり進取的だった。摂津国西成郡板加野に進出して所領を切り拓き、板金三郎と称したのである。 義時流で最も繁延したのは、三男義基系の嫡流である。代々、石川荘を領有して石川姓を称し、宮廷武家として兵衛尉、右馬允、式部丞など、 従五位相当程度の官に就いており、さらに伝手を求めては宜秋門院、和徳門院、西華門院などにも仕えて、蔵人などに任じられている。
代々、皇室と関係が深かったこともあって、元弘元年(1331年)の後醍醐天皇の笠置山籠城の際には、この系統の石川義純が参侯して、 飛騨守に任ぜられたという。しかし、直後に笠置山が落城し、大門を守っていた義純は幕府軍を相手に奮戦し、やがて自刃している。 これほどの功を樹てたにもかかわらず、やがて建武中興成って後醍醐天皇が京都に還幸しても、子孫には何の行賞もなかった。 こうして、この系統は南北朝内乱ななかで、一時、その姿を消すことになる。 この系統が再び姿を現すのは、江戸初期の寛永六年(1629年)である。 同族の桜井、古橋、木曽などを伴った石川次綱が、三代将軍徳川家光に召し抱えられて御徒組頭となったのである。 以降の代々は幕臣だった。
 
源義時後裔略系図
石川
義時 -- 義盛 -- 義久
| |- 義遠
| 平賀
|- 有義 -- 義賢
| 石川 板金
|- 義基 -- 義宗
| | 石川 小山 石川
| L 義兼 -- 頼房 -- 忠教 -- 忠頼 -- 義忠 -- 時通 -- 朝成 -- 氏房 -- 春信 -- 政康 (⇒石川氏族)
L 義資

 

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