(清和源氏)源義綱流系図

 

出   自       清和源氏源頼義
氏   祖       源義綱
派生姓氏       石橋氏族
賀茂・宮・美濃・服部

 

 
【系譜】
八幡太郎義家の次男義綱は、京都の賀茂神社で元服して、賀茂次郎と名乗った。 上野・常陸介のほか、陸奥・伊勢・美濃・甲斐・信濃などの国司を歴任し、従四位上にまで昇った。 兄義家とは別に、美濃国を中心とした武士団を組織しており、かなりの人物だったようである。 しかし、兄義家が死んで、その四男義忠が源氏の惣領の座についた直後、いわゆる”源氏の内紛”が起こり、義綱の一族は大打撃を受けたのである。 天仁二年(1109年)義家没後の源家の惣領義忠が、何者かに殺された。直後、嫌疑は、多田満仲の弟満政から三代目の源重実にかかった。 しかし、重実を捕らえて取り調べたところ、無実であることが判明した。 次に嫌疑のかかったのが義綱である。弁明したものの、義綱に対する嫌疑が晴れなかった。 義綱は、義弘・義俊・義仲・義範の四子とともに、近江国の甲賀山に篭居した。 一方、殺された義忠の跡を継いで、源家の棟梁となったのは、源為義である。この時わずか十四歳。 この為義のもとに、朝廷の命が下った。義綱父子の追捕である。やがて近江国甲賀山において、骨肉相食む合戦が展開された。 義綱とともにいた四子は自害し、義綱自身は捕らえられて佐渡国に流され、やがて殺された。 義綱と一緒でなかった三男義明も、やがて追討され、これも自害して果てた。義綱の一族はほぼ全滅したのである。
本当の義忠殺害の黒幕は、義家の三弟新羅三郎義光であった。義光が、郎等の鹿島三郎に命じて義忠を殺させたのである。 目的は源家の惣領になることであった。この時の義光の所業はあくまでもダーティーであった。 三井寺にいた義光のもとに、義忠暗殺を終えた鹿島三郎が帰ってきた。 すると義光は、手紙を鹿島三郎に与えて、僧になっていた末弟の西蓮房阿闍梨快誉の僧房に行かせた。 鹿島三郎の処置を手紙で命ぜられた僧快誉は、僧房の裏に深い土穴を掘り、鹿島三郎をその中に放り込んで生き埋めにしたのである。 真相が判明したときには、すでに義綱一族は全滅しており、義光は東国に逃れていた。 わずかに生き残っていた義綱の四男義仲の子盛宗が、義綱系の跡を継いだ。美濃国石橋に逃れて、その子孫は美濃・石橋姓を称した。 さらに下って、江戸時代に入ると、『寛政重修諸家譜』に、この子孫と称する服部氏が現れる。 宝永元年(1704年)、将軍徳川家宣に仕えた幕臣である。
 
源義綱後裔諸氏族略系図
義綱 -- 義弘
|- 義俊
|- 義明
|- 義仲 -- 盛宗 -- 盛俊
|- 義範
|- 義公
L 義直

 

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