大蔵姓春実を始祖とし、春実が御笠郡原田を得て、その後裔は原田氏を称し、太宰少弐種直が、夜須郡秋月荘を与えられ、
その子種雄は秋月城に拠って秋月氏の祖となった。その後筑前守護少弐氏・大内氏の変転極まりない支配に属して領土を維持した。
15代種方(文種)のとき、天文二十年(1551年)陶隆房謀反となり、大内氏が没落して筑前から後退し、
筑前へ進出した豊後の大友氏の支配に対し、同姓の原田隆種、筑後惟門とともに、抵抗した。
しかし弘治三年(1557年)七月、大友義鎮の派遣した臼杵義連の軍に攻められ、嫡子晴種とともに、古所城に敗死した。
次子種実は一時、山口の毛利の許に逃れたが、その後、筑前の高橋鑑種の手引きにより毛利元就の援兵を得て秋月城に入った。
再び大友軍に攻められ大友氏の重臣田原氏に頼って降伏した。
天正期から大友氏の勢力が衰退し、同五年(1557年)竜造寺隆信・筑紫広門の筑前進出に協力し、同七年から大友氏の派遣した朽綱宗歴の軍と戦い、
これを破り、筑前の大友勢力の立花道雪・高橋紹運と連戦した。同十三年から島津氏の大友攻撃の一翼を担ったが、
同十五年、豊臣秀吉の九州討伐軍に降伏した。著名な楢柴肩衡茶人と息女を差し出して本領の安堵を得たが、
同年、
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