源頼光後裔諸氏族(摂津源氏)系図

 

氏   祖       清和源氏源満仲・頼光
派生氏族       山県氏族土岐氏族馬場氏族
        多田・溝杭・能勢・野瀬・倉垣・馬場・太田・福島・堀・田尻・郡戸・郡家(以上摂津国)
山県・野・飛騨瀬・肥田瀬・飛騨・粟野・栗野・神田・神土・神内・神門・神野
上有智・上有知・蜂屋・八屋・落合・平野・土岐・浅野・気良・深沢・猿子・多治見
饗庭・小弾正・八居・金山・原・舟木・福光・墨俣・洲俣・島田・揖斐・伊備・稲木
池田・鷲巣・鷲津・今岸・今峰・明知・明地・明智・外山・木田(以上美濃国)
小国・大中川・小中川・小船津・清水・田代・小野・大河内(以上越後国)
井上・芳美・須田・高梨・米持・福島・小山・日滝・小坂・村上・葦田
佐久・久保・窪(以上信濃国)
野田・野太(以上和泉国)
松崎(佐渡国)
深栖・深津(以上下総国)
小塞・尾塞・尾関・小関・萱津(以上尾張国)
菅野・関野・菅野(以上上野国)
方面・三栗(以上下野国)
長沢(越中国)
乙部(伊勢国)
高田・坂田(以上河内国)
        六条・鳥羽(以上京都屋敷地由来)
大内・滝口(官職由来)
河内・対馬・肥後・伊賀・出羽・隠岐・摂津・伊豆・伯耆・美濃(以上国司由来)
その他       手島・中村・芝井・多治見・深田・古川・下間

 

摂津源氏略系図
多田氏族祖
満仲 -- 頼光 -- 頼国 -- 頼弘 -- 家光 -- 淳国 -- 国光 -- 惟光
  | 多田
  |- 頼綱 -- 明国 -- 行国 -- 頼盛 -- 行綱
  | | |- 知実
  | | | 能瀬
  | | L 高頼
  | | 馬場
  | |- 仲政 -- 頼政 -- 仲綱 -- 宗綱 -- 公綱 -- 忠綱 (→馬場氏)
  | |   | 深栖
  | |   |= 光重
  | |   | 小国
  | |   L 宗頼 -- 頼連 -- 頼隆 -- 頼村 -- 頼厚
  | | 山県
  | L 国直 -- 国政 -- 頼清 -- 頼資 -- 頼経 -- 国綱 (→山県氏)
  |   土岐
  |- 国房 -- 光国 -- 光信 -- 光基 -- 光衡 -- 光行 -- 光定 -- 頼貞 (→土岐氏)
  | 溝杭
  |- 頼資 -- 資兼 -- 資時 -- 資家 -- 資村
  | | 深津 深栖
  | L 基国 == 光重
  | (井上)
  |- 頼実 -- 頼季 -- 満実
  |- 実国 -- 行実 -- 光行 -- 行頼 -- 国行
  |- 頼仲
  | 福島
  L 師光 -- 満隆 -- 経光

 

 
【系譜】
源満仲の三男頼信の系統が東国武門の棟梁への途を辿って、やがて清和源氏諸流のうちの正統の嫡流とされていったのに対し、 血統的にはまさしく嫡流であるべき長男の頼光の系統は、父満仲から伝領した摂津国多田荘に本拠を置いて、 摂津源氏・多田源氏と称して、相も変らぬ宮廷武家としての生涯を送ることが多かった。 頼光の嫡孫頼弘以降の系統は、血統的にはまさしく源家の嫡流であることを誇って、最後まで源の家名を守って、地名などを苗字として呼称することがなかった。 しかし、頼弘の六弟国房が美濃国に本拠を移して美濃源氏となるや、頼弘の五弟頼綱の系統もこれに同調して美濃国に移っていった。 しかし、美濃源氏の主流は、国房の系統であり続けた。 頼弘の次弟頼賢、三弟頼実、四弟実国は、いずれも摂津国に住んだが、やがてそれらの系統も次第に東国に根拠を移していった。 頼光の嫡男頼国は、伊予守藤原元平の娘を母として生まれた。なかなかの切れ者だったらしく、左兵衛尉・文章生・左衛門尉などから身を起こして、 皇太后宮大進・春宮大進などを経て、蔵人、左馬権守などから、上総介・美濃・三河・備前・摂津・但馬・伯耆・讃岐・紀伊などの国司を歴任して、 位階は正四位下にまで昇っている。

頼国の子の代で、頼光系は大きく六流に分流する。 嫡男頼弘の系統は、血統上の正統の嫡流たることを自負して地名や官職に由来する苗字を称せず、最後まで源姓で押し通している。 頼国の次男頼資は、康平七年(1064年)五月、事情は明確でないが、上野権介橘惟行の訴えにより佐渡国に配流された。 しかし、すぐに土佐国に配所替えとなり、治暦二年(1066年)七月二日、勅免を受けて返されたが、直後の同年八月二十四日に死んでいる。 その四男基国の代に下総国に下り、下河辺荘内深栖郷に移り住んでいる。 頼資の三男光重がその養子になって深津三郎と称したのは、この故である。 頼弘・頼資兄弟の三弟頼実も、兄頼資とともに土佐国に配流されたことがある。 その孫満実の代に信濃国に下り、子孫は須坂荘、芳美御厨、井上荘、村上荘、佐久郡などに繁延した。 この系統の人々の苗字は、いずれも信濃国の地名に由来している。しかし、この系統は信濃源氏の本流ではない。 頼弘の四弟実国は、左衛門尉・春宮大進・常陸介などを経て、備前・土佐・播磨などの国司を歴任して、従四位上まで昇り詰めている。

頼光流でもっとも繁延したのは、頼国の五男頼綱の系統である。史上に現れたものも多い。 頼綱自身、左衛門尉、蔵人などのほか、下総・下野・三河などの国司を歴任し、検非違使にも任ぜられて、従四位下にまで位階を昇せている。 永長二年(1097年)七月十二日、七十三歳で出家したと伝えられている。 頼綱は五男ではあったが、摂津国多田荘を伝領して多田蔵人と称した。 以降、その嫡流四代まで多田姓を称し、頼信系の頼義・義家が東国武門の棟梁として現れるまで、清和源氏の嫡流として見做されていたらしい。 頼綱の嫡流の四代目というのは、史上に有名な多田蔵人行綱である。 平家全盛の治承元年(1177年)、後白河法皇の肝入りで平家追討の陰謀が京都北郷の鹿ヶ谷で企まれていた時、行綱もこれに与同していながら、 同六月、これを平清盛に密訴して、いわゆる「鹿ヶ谷の変」を起こしたのである。 このように、一度は平家方に寝返っておきながら、頼朝などの挙兵によって源平合戦が本格化すると、寿永二年(1183年)七月頃、 行綱は平家方から離反して、摂津・河内両国を横行して悪行を重ねている。 しかし、さすがの行綱も頼朝までは欺くことができず頼朝に勘当されて、本領を没収されている。 しかし、その直後の同年十一月、義経が頼朝に追われて西海に没落しようとしたとき、行綱は頼朝に尻尾を振って、 摂津国川尻で義経を襲撃するようなことをしている。 しかし、この程度のことで、行綱が頼朝に許されるようなことはなかった。 行綱から没収された多田荘は、以降、多田氏に返却されることはなく、同族の大内惟義に与えられた。 行綱自身のその後は不明であるが、その子孫は永く多田荘に住んでいたらしい。 その後、数代にわたって、この系統が多田姓を称しているのである。

いささか悪名という点で世に知られた多田行綱に比して、歌人として、弓の名人として、そしてその壮烈な戦死によって、 その佳名を天下に知らせたのは、馬場氏流の頼政である。頼綱の次男兵庫頭仲政の嫡男で、通常、源三位頼政として知られている。 多田行綱とほぼ同時代の人で、長治元年(1104年)から治承四年(1180年)六月十五日まで生きた。 摂津国島下郡馬場を本領とし、摂津渡辺党の棟梁でもある。鵺退治の伝説もよく知られている。 平治元年(1159年)の乱では、最初は源家の総帥義朝に従っていたが、義朝が父為義や弟為朝を敵としたことを嫌って平家方についた。 治承三年(1179年)十一月、清盛が後白河法皇を鳥羽殿に幽閉するという暴挙を敢行すると、これに抗議する形で出家し、 以仁王高倉宮を擁して平家打倒を企図し、平家追討を令した以仁王の令旨を、天下に雌伏していた諸国の源氏に伝宣した。 これが治承四年中旬における諸国一斉の源氏の挙兵となる。 しかし頼政は、以仁王を擁して奈良興福寺に向かった時、宇治平等院の辺りで平家の追撃軍に追いつかれ、 激しい橋合戦を演じた後、自刃して果てたのである。いずれにしても、頼政の行動が頼朝挙兵の直接の原因になったことは事実である。

頼政が宇治平等院で自刃したとき、嫡男仲綱、嫡孫宗綱、三男兼綱らも、同時に自刃している。 こうして頼政系の嫡流を継ぐことになったのが、頼政の嫡孫宗綱の次弟有綱である。 これは、父仲綱が伊豆守だったことにちなんで、伊豆有綱と名乗っている。 この有綱は義経の娘を妻として、その娘婿となった。このような関係があったために、義経が頼朝に追われて野に下ると、 有綱もどこかに潜伏したが、文治二年(1186年)六月十六日、大和国宇陀郡に隠れているところを頼朝の討手北条時定に発見急襲され、 激しく抵抗した末に山中に入って自刃している。 こうして、頼政系の嫡流は有綱の弟広綱が嗣ぎ、摂津国太田荘に本拠を移して太田氏と称した。太田氏の祖である。 しかし、以降は振るわず、結局、頼政系の嫡流の地位は頼政の四男頼兼の系統に移った。 この頼兼は、その世系が代々宮廷武家だったこともあって大内裏の警固を任とする大内守護に就任した。 頼兼の系統が大内姓を称したのは、このためである。 しかし、すでに源家が将軍である鎌倉幕府も成立していたので、大内氏も単なる宮廷武家として大内守護を勤めたわけでもなかった。 しばしば鎌倉に下って幕府にも接近しており、大内守護の任を利用して宮中の雑事秘事を鎌倉に報告するなど、 幕府の京都に対する耳目の役も果たしていたらしい。 そのためであろう、後鳥羽上皇が幕府追討の陰謀を実施するにあたって、承久元年(1219年)七月十三日、 まず京方の攻撃を受けて、頼兼の嫡男大内頼茂は戦死している。 こうして、頼政系の嫡流の地位は、またもや二転三転して、頼政の弟頼行の系統に移ることになる。 その嫡流宗頼は、京都を避けて越後国小国保に下って、小国氏を称した。 一族は小国保を中心として越後国各地に繁延し、それぞれの所領の地名を冠して、大中川・小中川・小船津等々と称していた。 この系統が、大内氏滅亡のあとを受けて、頼綱系の嫡流と目されることになるのである。

元に戻って、頼光系諸氏の方で、永く続いたのは、頼国の六男国房の系統である。 国房は伊予・陸奥・伊豆・土佐・信濃などの国司のほか、治部丞や検非違使なども歴任して、正四位下にまで位階を進めた。 基本的には宮廷武家だったらしいが、早くから美濃国に本拠を移して美濃七郎と称し、いわゆる美濃源氏の主流となったのである。 この国房は、祖父頼光、父頼国が血統上の源家の嫡流であったことから、自分は頼国の六男であったにもかかわらず、 自流が正統の嫡流の一つであるとする意識を、なかなか捨てようとしなかった人物である。 そのため、祖父頼光の三弟頼信、その子頼義の二代が東国武門の棟梁として台頭すると、やむなく国房は頼義に臣従することになったが、 その正統意識の故に頼義の嫡男八幡太郎義家に、一度は襲われることになる。 国房の嫡男師時が光国と名を改めてから以降、美濃源氏の主流だったこの系統は、代々「光」の字をもって相伝の一字とすることになる。 光信、光基、光衡、光行などである。 光行は、美濃国土岐郡を本領にして、土岐左衛門尉と称していた。美濃国の土岐氏の祖である。 同時に浅野判官とも名乗ったというから、土岐郡浅野が居館の位置だったかもしれない。 判官、つまり検非違使尉だったことが示すように、この時期になっても、まだ宮廷武家であることをやめなかったようである。

その光行から三代目の国綱・四代目の光定の頃、土岐氏は鎌倉幕府において、一定の昇格をする。 国綱は、東国有数の大豪族であった下総国の千葉介頼胤の娘と結婚して光定を生み、その光定は鎌倉北条氏八代目の北条貞時の娘と結婚して、 最後の得宗北条高時の義弟となり、土岐定親、土岐頼員、舟木頼重の三息を得たのである。
この頃、後醍醐天皇が倒幕の企図を抱き、美濃源氏の土岐一族にも働きかけてきたのである。 そして、北条貞時の娘が生んだ舟木頼重の子頼春は、真っ先にこれに参加し、しかも妻に事の次第を漏らしたがために、 天皇の陰謀に与同していた同属の多治見国長・土岐頼兼らは幕府の討手を受けて戦死したと、『太平記』に記されることとなる。 しかし、事実はこれとはやや相違するらしい。”正中の変”の元凶になったのは舟木頼春ではなく、 多治見国長に騙られて天皇の陰謀に参加していた土岐頼員が密告して出たが発端だったようである。 これは、『花園天皇宸記』に明確に記されている。なお、この土岐頼員は北条貞時の娘が生んだ定親の孫であった。

やがて建武の新政を経て南北朝内乱が始まると、土岐一族はほぼ全体として北党方となり、 一族のうちからは伊勢・尾張などの守護職を室町幕府から受けるものも現れる。 南北朝・室町期を一貫して土岐氏が有していたのが、美濃国守護職である。 以降、土岐氏十代の美濃国守護が続いたが、土岐頼芸のときの天文十六年(1547年)家臣の斎藤道三に居城と領国を奪われることになる。 その後、織田信長の家臣になった明智光秀も、この土岐氏の一族である。

土岐一族は、その後、多く江戸幕府に仕えて旗本になっている。 旗本の土岐、池田、植村、島田、揖斐、蜂屋、土井、坂、吉田、保々、妻、菅沼、仙谷、徳山、肥田、浅野、大河内、高田、 進藤、中川、福島、落合、清水、山名、能勢、伊丹、平岡等々の緒家がそれで、いずれも『寛政重修緒家譜』などで先祖を尋ねると、 頼光にまで遡ることができる。
 
経基王後裔諸氏族     源満仲後裔諸氏族