文徳天皇後裔諸氏族系図

 

派生天皇       清和天皇後裔
派生姓氏       坂戸・近院

 

 
文徳天皇は天長四年(827年)の生まれで、仁明天皇の第一皇子である。 嘉祥三年(850年)に父仁明天皇の死去により即位したが、その背景には承和の変に乗じた藤原良房の画策があった。 そのことは仁明天皇の項で触れているので詳述しないが、文徳の在位中は政治の実権を良房に握られたままだった。
天安元年(857年)に良房を太政大臣に任じ、その翌年に没したが、文徳のあと皇位に就いたのは、第四皇子の惟仁親王(清和天皇)だった。 惟仁親王は文徳と良房の娘明子間に生まれた子で、のちにその後裔が清和源氏となって栄え、藤原氏による摂関政治に代わっていくことを考えると、 良房の権勢は歴史の皮肉を生み出したことになる。 『尊卑分脈』によると、文徳の皇子の中でも能有の後裔が栄え、やがて康季が出て、坂戸氏を号した。 康季は、白河天皇のときに召し出され、白河天皇脱?以後は、北面の武士として仕えた。河内の坂戸牧が本領であり、そこに住していた。 康季は、大治五年(1130年)に60歳で亡くなっているが、以後、この子孫を坂戸大夫判官と号した。 康季が北面の武士になっているせいか、代々のものの多くがその任に就いている。 保元の乱や平治の乱で活躍した周防判官季実も、この坂戸氏の一族で、その名は『保元物語』『平治物語』などに見える。 また、時代は下って応仁の乱頃にも、畠山義就方の先駆けとしてその後裔が活躍している。
 
文徳天皇後裔略系図
文徳天皇 -- 惟喬親王 -- 兼覧王
|- 清和天皇 (⇒清和天皇後裔
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|- 惟彦親王 -- 惟世王 -- 寧幹 -- 遂良
|- 惟条親王 -- 景式王
|- 惟恒親王
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|- 能有 -- 当元 -- 人鑑 -- 兼遠 -- 崇年
| |- 当時 -- 忠相 -- 為泰
| | | L 為国
| | |- 相平
| | |- 相職 -- 惟〇
| | | | 惟正 -- 遠古
| | | | |- 遠節
| | | | |- 遠理
| | | | |- 遠宣
| | | | |- 遠章
| | | | |- 遠業
| | | | |- 遠資
| | | | |- 遠相
| | | | L 兼宣 -- 章経 -- 公則 -- 公貞 -- 信季 -- 康季 -- 季範 -- 季頼 -- 季国
| | | | | L 季実 -- 季道
| | | | L 近康 -- 康綱
| | | |- 惟長
| | | L 惟光
| | |- 相平
| | |- 相明
| | |- 相国 -- 忠直
| | | |- 忠信
| | | |- 弘景
| | | |- 忠光
| | | |- 忠義
| | | |- 忠清
| | | L 忠敏
| | L 中明 -- 方光
| |- 当艦
| |- 当方 -- 純忠 -- 憲章
| |- L 純仁 -- 宗利
| |- 当年 -- 中正 -- 国頼 -- 忠信
| | | | |- 忠臣
| | | | L 忠節
| | | L 国光 -- 致文
| | | |- 致遠
| | | |- 致治
| | | |- 致時
| | | L 遠〇
| | L 中理
| |- 当純 -- 安直 -- 惟信
| L 当李 -- 仲舒 -- 致明
| | L 時明
| |- 仲堪
| L 仲連 -- 忠良
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|- 毎有
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|- 時有
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|- 本有 -- 綏之
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|- 定有 -- 雅固 -- 実時 -- 惟信
| | L 能信
| L 雅胤
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|- 載有 -- 邦紀 -- 仲文
|- L 清廉 -- 行方
| |- 行義
| |- 行方
| L 忠全
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|- 行有 -- 清雅 -- 三総
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L 冨有

 

天皇家略系図       仁明天皇後裔諸氏族