仁明天皇後裔系図

 

後裔天皇       文徳天皇後裔光孝天皇後裔
派生姓氏       山科・八条・西三条・貞

 

 
仁明天皇は弘仁元年(810年)の生まれで、嵯峨天皇の第二皇子。名を正良といい、母は橘嘉智子である。 叔父淳和天皇の即位とともに皇太子となり、天長十年(833年)、淳和より位を譲られた。 即位にあたって淳和の皇子恒貞親王を皇太子としたが、淳和、ついで嵯峨上皇が没すると、伴健岑・橘逸勢らが恒貞親王を奉じて謀反を企てたことが発覚し(承和の変)、 恒貞親王は廃され、藤原良房の甥にあたる仁明皇子道康親王が立太子した。 この事件は、他氏排斥・権力独占を謀る藤原氏の陰謀とみられ、事実、仁明の治世の後期には良房の勢力が伸長してきた。 だが、天皇は政治に意欲的で、国司の不正を正し、『令義解』を施行させ、自ら京内を巡視して回ったという。 また、経史に詳しく、詩文を愛好し、書に優れ、射をよくした。
仁明源氏で名を知られているのは、源光の末孫である綱である。 綱は系図上は嵯峨源氏であるが、幼くして父母を亡くしたので、仁明源氏である源敦に嫁いでいた伯母に引き取られて成長した。 その養母が摂津国渡辺に住したので、その地名を取って渡辺綱と名乗った。 源頼光に仕え、武勇に優れ、数々の伝説を残している。 頼光に従って酒呑童子を退治した話や、京の一条戻り橋に出るという鬼女を”鬚切”という銘刀で斬った話は有名である。 後には、頼光の子頼国に仕えた。
 
仁明天皇後裔略系図
仁明天皇 -- 文徳天皇 (→文徳天皇後裔
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  |- 人康親王 -- 興基
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  | |- 興範
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  | L 興扶
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  |- 本康親王 -- 雅望王 -- 希世 -- 忠孝
  | | | L 忠依
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  | | L 隋時 -- 真生 -- 仲政
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  | |- 行忠王 -- 佐幹
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  | | L 佐忠 -- 清忠 -- 業任
  | |- 修平王
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  | |- 惟時 -- 在寛
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  | |- 兼似
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  | |- 兼仁
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  |   |- 朝監
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  |   |- 朝憲
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  |   |- 保望 -- 惟輔
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  |   L 由道 -- 輔成
  |   L 輔忠
  |- 国康親王
  |- 宗康親王
  |- 常康親王
  |- 光孝天皇 (→光孝天皇後裔
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  |- --
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  |   L
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  |   L
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  |- --
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  |   L 賢--敦--綱
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  |- --
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  |   L
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  |- (?)雅望
  |- (?)行忠
  |- (?)惟時
  |- (?)是茂--師世--貞清
  L (?)衆望
 
天皇家略系図       嵯峨天皇後裔系図